湯河原昔語り of WEBゆがわら-社団法人湯河原温泉観光協会公式サイト-

HOME > 歴史と文学 > 湯河原昔語り

湯河原昔語り

頼朝と純海ー民話と名作の語りよみからー

komiti.jpg小道地蔵堂石橋山合戦に敗れ、源頼朝主従七騎は土肥椙山(すぎやま)の山中(現寺屋敷後)に難を逃れました。これを僧純海は主従を堂内の穴に匿い身をていして救います。
大庭景親の軍勢堂内に押し入り、頼朝の行方を追求するも、純海これに頑として応えず、責めせっかんの末、ついに絶命。大庭方、引き揚げざるを得なかったといいます。
暮れ近く、穴から出た頼朝が純海の無残な姿にはらはらと涙を流すと、不思議や涙、純海の唇を濡らし、上人蘇生。
かくのごとく奇跡を経て、主従七騎は房州に逃れ鎌倉で天下(政権)取り。晴れて純海の忠誠に報いる為、頼朝は寺領を与え堂宇を建立。
「小道山来潮寺(しょうどうざんらいちょうじ)」(叉、小道山頼朝寺ともいう)の称を送ったと伝えられています。
来潮寺の謂いは吉浜海岸に塩田を与えたとも云われていて、この方が説得力があります。
堂は火災で焼失し、仔細は歴史の彼方。ですが、信仰(小道地蔵再建)は今も残りその消息を伝えています。

江戸後期の温泉番付

江戸時代後期、文化14年(1817)のこと。
紀州(和歌山県)の熊野本宮を行司として相撲番付を模しての「温泉番付」なるものが作製されていました。
このたび、草津温泉在住の方から好意により、その番付が町に寄贈されました。
この番付は、熊野本宮が、古来、温泉の神様とされ、江戸時代は伊勢詣り、熊野詣りが盛んだった事から、熊野本宮之湯を立行司に見立て作製されたようです。
これによると、湯河原温泉は「豆州湯川原湯」として東の小結に位置付けられています。
番付の最高位が当時の相撲の最高位大関までで横綱がない時代の事ですから、小結は立派なものです。
足しますと「江戸より二十四里、切り傷などに効能がある」と記されており、つとに、全国的にも湯河原の温泉が紹介されていた事が伺われます。

湯河原の小字(こあざ)考

小字には興味をそそる読みがあるのは珍しくありません。湯河原も同じです。
弁当場、ガラメキ、入ノ河原、老僧坊、大草・・・等々、思わず何だろうと首をひねってしまう名前が並びます。
大字には相模国風土記に記載はあるものの、小字にはその記録がほとんど残されていません。どうも、明治の地租改正の際に決められたというのが事実のようです。失われつつある小字も、言い習わされた名として記憶に残っています。
いくつかを拾ってみますと、「塩川(しおかわ)」=シホカワの転用か。しぼんだ地形の川という説か。しぼり川。相模国風土記に渋川の記載あり、「しぼかわ」からの転用かも。
「真砂(まさご)」=ガラメキを「空・カラ」「水・ミ、メ」「処・キ」と読めば、新崎川の水勢が弱い、砂が沈殿するところを、砂、礫が多い場所と示し、真砂、等これだけで興味深々。深いものです。

人車鉄道(明治29年創業)の話

jin.jpg人車鉄道
人車鉄道とは、トロッコのような小型の箱車を人夫が2・3人でレールの上を押すという鉄道です。
湯河原には吉浜や門川に停車場がありました。
面白いのは、客車は下等、中等、上等と分かれていたといいますが、ただ仕切りが分かれているだけで、乗り心地に差はなかったということです。
では本当の差はどこにあるかというと、坂道にさしかかり人夫の手に負えない時は乗客はみな降りて押すのを手伝うのですが、上等客はその必要がなかったという特典があるという違いだけだったそうです。
国木田独歩の「湯河原ゆき」から、この人車鉄道の雰囲気を味わってみましょう。

「ところが小田原から熱海までの人車鉄道に此(この)喇叭(ラッパ) がある。
不愉快千万な此(この)交通機関に此(この)鳴物が附いている丈(だけ)で如何(どう)にか興を 助けて居るとは兼て自分の思つて居た(略)」

軽便鉄道(明治39年創業)と湯河原風景

kei.jpg当時の軽便鉄道
芥川龍之介の小説「トロッコ」に人車鉄道から軽便鉄道への転換のための道路改修工事の風景が描かれ、現在の湯河原の川堀の集落を思わせる描写があるので、ご紹介します。

「彼の村へはひつて見ると、もう両側の実家には、電灯の光がさし合つてゐた。
良平はその電灯の光に頭から汗の湯気が立つのが、彼自身にもはつきりわかつた。
井戸端に水を汲んでゐる女衆や、畑から帰つて来る男衆は良平が喘ぎ喘ぎ走るのを見ては、「おいどうしたね?」など声をかけた。が、彼は無言の儘(まま)、雑貨屋だの床屋だの、明るい家の前を走りすぎた。」
軽便鉄道は、小田原早川口から熱海まで海岸沿い約25kmの距離を1日十数回往復していました。
所要時間は3時間。下等40銭、中等60銭、上等1円という料金。
新橋のビアホール(明治32年開業)のビール1杯、半リットル10銭、当時の盛そば1杯2銭ですから、その値段が想像できますね。

昭和十一年の或る雪の朝(2・26事件秘話)

ko.jpg当時の光風荘
「デンポウ、電報」
男が台所の戸をたたく。
全てはそこから始まりました。
男は、河野大尉。帝国陸軍の若き青年将校です。
身長五尺六寸ほど、がっしりとした身体つき。体重十八貫五百匁(もんめ)位に見えたといいます。
その大尉が戸を蹴破り、部隊を率い旅館に乱入し、閑静な湯の里の朝は沈黙から騒動に変わりました。
場所は湯河原温泉。
伊藤屋旅館の貸別荘光風荘、湯の里での2・26事件でありました。
その事件のエピソードのひとこま。
「止まれ!」河野大尉は男を制す。
「君は何だ?」「俺は消防団だ。君こそ何だ?」
「我々は国家の革新の為にやるのだ。邪魔をされては困る」
「邪魔をするしないじゃない。民家に火をつけるって法はないんじゃないか。近所に延焼したらどうするんだ」と押問答。
「そりゃすまん」大尉は一言云った。
この消防団員こそ岩本亀三氏であり、その勇敢さで、知事等の感謝に浴しました。
2・26事件の記録から
内務省警保局「昭和11年中に於ける社会運動の状況」から抜粋
■目標:牧野元内府(神奈川県足柄下郡湯河原町橋上六二〇伊藤屋旅館貸別荘)
■時刻:自 午前五時四十分頃 至 同六時二十分頃
■指揮者:所沢航、河野大尉
■兵員:指揮者共六(八)名
■被害:巡査皆川義孝(即死) (略) 岩本亀三(銃創) (略)別荘一棟焼失損害約六千円
■状況:自動車二台 機関銃二基を持して襲撃し同別荘に放火す。

感謝状 岩本亀三
昭和十一年二月二十六日払暁県下湯河原ニ於テ元内大臣伯爵牧野伸顕宿舎ヲ叛乱部隊ガ襲撃シタル事変ニ際シ克ク同伯等ノ救護ニ努メタルニ付金壱封ヲ賞与ス
昭和十一年三月十三日
神奈川県知事従四位勲三等 石田馨

記録の抜粋から、往時の事件の凄まじさや、地元の救護の活躍ぶりが窺えます。