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湯河原と文学

taisyo.jpg湯河原の旅館街(大正期)日露戦争後、需要に応じて各旅館は増改築を進め発展していたが周囲にはまだ田畑も残りひなびた趣が漂っている。 古く万葉集にも詠まれた湯河原は長く秘湯の趣を持った温泉場であった。藤木川に身を寄せ合うように立ち並ぶ宿に文人たちが親しく訪れ始めたのは明治中ごろからである。

しばしば訪れた国木田独歩はその風情を愛し、いくつかの作品を残した。
大逆事件で捕らえられた幸徳秋水を見送る田岡嶺雲も、背にこの渓谷の水音を聞いていた。
夏目漱石は遺作「明暗」の重要な舞台としてここを選び、芥川龍之介もまたこの地に俗塵を避けた。
疲れた心を山あいの湯に慰めようと訪れる与謝野晶子、島崎藤村、宇野浩二らの姿もあった。
戦後も小林秀雄、丹羽文雄、大岡昇平ら多くの作家が逗留し創作の筆をとった。

昭和に入り、湯河原は温泉地として飛躍的に発展したが、文人たちの安らぎの地であることに変わりはなかった。
島崎藤村は伊藤屋旅館にしばしば逗留し「夜明け前」執筆の疲れを癒した。
また、晩年の与謝野晶子にとって、吉浜・真珠荘でのひとときは大きな慰めとなった。
この他、万葉公園建設に尽力した佐々木信綱の名も忘れる事は出来ない。

藤木川の上流、奥湯河原の加満田旅館が文士の宿に加わったのは戦後まもなくのことである。
滞在客は宇野千代、林芙美子、石川達三、獅子文六と多彩であった。
小林秀雄が「ゴッホの手紙」を構想し、水上勉が「飢餓海峡」を完成させたのもこの宿で、大岡昇平の「花影」にもその反映を見る事ができる。

湯河原は今もなお作家たちの創作の場、あるいは交遊の場として愛されつづけている。

夏目漱石(1867~1916)

友人中村是公に連れられ、1915年11月と翌年1月に天野屋に滞在した。

soseki.jpg夏目漱石は晩年2度静養に訪れ、友人たちときままな日々を過ごしている。
漱石の「明暗」は、天野屋(現在は廃業)で主人公が昔の恋人と再会する場面を最後に、漱石の死によって未完の作品となってしまった。
逗留した天野屋に残されている漱石の書いた漢詩に「山是山 水是水」とある。
これは漱石の作詩ではなく、江戸時代の東野英朝の撰になる「仏教詩句集」の中の一句であり、「山は是(これ)山なり 水は是(これ)水なり」と読む。
意味は山はこれまさしく山である、つまり、山には山の個性があり、同様に水には水の個性があり、その2つの個性がうまく調和し、自然を形成しているという意味である。
それがこの湯河原の渓谷美であると、漱石はいったのであろう。

国木田独歩(1871~1908)

湯河原に深い愛着を寄せ「湯ケ原より」「恋を恋する人」等の作品は世に湯河原の名を広めた。

doppo.jpg独歩は、晩年の数年間は肺結核を患い、湯河原温泉にも、当時文士たちに愛用されていた旅館「中西屋」(現在は廃業)に3回も保養に来て、「湯ケ原より」「恋を恋する人」「湯ケ原ゆき」の3つの短編小説を書き上げた。
「湯ケ原ゆき」の末尾は次のような一文で終わる。
「日は暮れかかって雨は雨は益々強くなった。山々は悉く雲に埋もれて僅かに其麓を現はすばかり、我々が門川で下りて、更に人力車に乗りかへ、湯ケ原の渓谷に向かった時は、さながら雲深く分入る思があった」。
緑字の部分が万葉公園の中にある独歩文学碑に刻まれている。

島崎藤村(1872~1943)

老舗旅館「伊藤屋」にしばしば逗留し「夜明け前」執筆の疲れを癒した。

toson.jpg島崎藤村の代表作「夜明け前」執筆活動は大変な労苦を要し、静子夫人は夫の健康を気遣い、医師である実父の勧めで湯河原温泉保養を思い立ち、年に4回の原稿提出後の数日間を伊藤屋旅館でゆっくりくつろぎ、その期間は昭和5年から「夜明け前」完成の昭和9年を過ぎ、「先生の死がくるまで十余年間」と静子夫人著「ひとすじの道」(明治書院刊)は記している。
湯河原に関する藤村の記録や作品は、そこから投函した書簡以外皆無に等しいが、静子の「ひとすじの道」をはじめ、「落穂」(明治書院刊)、「藤村─妻への手紙」(岩波書店)などには、湯河原の事が数々かかれている。

谷崎潤一郎(1886~1966)

谷崎は湯河原に移るまで熱海伊豆山に住み、その住居を同じく「湘南山房」と呼んでいた。

tanizaki.jpgsyoheki.jpg湘碧山房湯河原吉浜に念願の湘碧山房を建てた谷崎潤一郎は、この家で3度目の「源氏物語」現代語訳を完成させたが、翌年夏創作への意欲を残しながら逝った。
ここでの1年間は、老齢に加えて病気がちで、作品はわずかに「新々訳源氏物語」の書き継ぎの完成、短編随筆の「七九歳の春」「にくまれ口」などに過ぎないが、そのメモ帳などから察するに、仏教的大作を意図していたようである。
その書斎生活は謹厳なもので、谷崎の主治医を務めた地元医師井出隆夫氏の言にも「非常に几帳面な方で、具合が悪くなられてからも、寝転がったまま本でもお読みになったら、と申し上げてもそれがお出来にならなかった」(稲沢秀夫著「聞谷崎潤一郎」)と。「書けなければこの世に用はない」というのが口癖だったと言う。

芥川龍之介(1892~1927)

写真は1921年藤木川の河原で、右から芥川、南部修太郎、小沢碧童。
中国旅行後の疲労のため療養にきて、絵を描いたり楽焼きなどを楽しんだ。

aku.jpg芥川の書いた湯河原を舞台とした小説は3つある。
「トロッコ」「一塊の土」「百合」がそれで、いずれも吉浜の力石平蔵という人と深い関係がある。
力石は土地の農家の長男として生まれ、地元の高等小学を終えて農業に従事する一方で文学方面にも興味を持ち、特に芥川の小説を愛読し、熱心な芥川文学ファンとなり、次第に芥川と人間関係も出来てきて、結婚前に既に東京田端の芥川家に出入りし、自分の妹たちを芥川家の女中さんとして住み込ませたり、芥川の健康を心配して湯河原温泉中西屋を紹介したり、芥川の晩年には療養先で芥川夫人に代わり留守番役を引き受けたりする。

生活上の親交は文芸上にも影響するのは当然で、読書量の膨大な芥川でも都会生活の体験だけで生活圏は狭く小説の題材に不足し苦慮する事が多かった。
前記の作品は農村育ちの力石の語るところなどを材料に書き上げたものなのである。

与謝野晶子(1884~1942)

度々、吉浜真珠荘を訪れ、庭の大島桜をこよなく愛した。

akiko.jpgsinju.jpg真珠荘真珠荘は吉浜の実業家有賀精の邸宅で、1932年に与謝野夫妻と知り合って以後、たびたび彼らを招いてもてなした。
ここから見える真鶴の海の広大な景観と、庭に立つ典雅な大島桜は歌人たちを魅了した。
特に晶子はこの大島桜をこよなく愛し「吉浜の真珠の荘の山ざくら 島に重なり海に乗るかな」など数々の桜の歌を詠んでいる。
晶子最後の歌集名を「白桜集」と云ったり、戒名を「白桜院鳳翔耀晶大姉」と称するのもこの大島桜にちなむものという。

小林秀雄(1902~1983)

写真は加満田旅館の前にて。

kobayasi.jpggohho.jpgゴッホの手紙原稿小林秀雄は昭和23年に「ゴッホの手紙」「鉄斎」などの執筆に加満田旅館に泊まったのを皮切りに、その没する2年前の昭和56年まで30年間、毎年多くは年末年始を同旅館「どうだんの間」で過ごした。
小説家水上勉が「飢餓海峡」を完成させたのもこの宿である。

山本有三(1887~1974)

湯河原を終生の住居とし、十国峠の連峰を眺め山々と語らった。

yamamoto.jpg山本有三の湯河原での文学作品は「無事の人」と「濁流」の2作だけという寡作ぶりで、主として政治活動や文化活動に集中している。
「濁流」は死の前年85歳の高齢をもって長年温めていたテーマ“元首相・公爵近衛文麿の伝記”である。
又、俳句をも趣味、余興として楽しんでおり「閑居雑吟」と題し「湯河原にて」と前書きして「山ひだの深まってゆく冬日かな」などの句を詠んでいる。